権力者のレトリック

先日,爆笑問題がやっている「太田光の『私が総理大臣になったら』」という番組を見た。
毎回,太田が自分が総理大臣になったらこういう政策をやりますといって公約し,その賛否を問うという番組らしいが,今回の公約は「日中韓3カ国で共通の歴史教科書を作る」というものだった。
番組の議論は面白く,いろいろ考えさせられた(オイラはこういう討論番組が好きなんだけど,最近はご無沙汰してました。)。


歴史認識問題でいつもオイラが納得できないのは,先の日本による侵略戦争を正当化する人たちがよく使う「戦争をしたことに対して,そんなに自虐的になる必要はない。」という決まり文句だ。
自虐的とは,自分自身を,あるいは自分の行った行為を,理由もなく貶めたり,責めたりするということだと思うが,「自虐史観」を言う人たちは,権力者と一般国民とを意図的に同一化させるというレトリックを使い,問題の本質をすり替えようとしている。


先の日本が行った侵略戦争を検証し,戦争責任を明らかにすることは,そこから未来に向かって教訓を引き出すことであり,二度とあのような悲劇的な戦争を起こさないためには絶対に避けて通れない作業のはずだ。そのことは結局,自らが暮らす国,この日本を平和的な国家にする途につながる。ここのどこに,自分を理由なく貶める行為があるのだろうか。


時の為政者,権力者と一般国民を意図的に混同し,国対国という図式を作り出して,偏狭なナショナリズムを作出する手法は,問題の本質を隠蔽し,権力者が自らの思惑を成就させるために使う常套手段だが,今,問題となっている靖国問題でも,まったく同じ構図があるように思う。


権力者を疑い,監視し,批判する。
自分も含めて,今の日本には,あまりにもこの視点が少ないように感じる。
権力者と自己とを同一化し,権力者の言うことを無批判的に受け入れていたら,過去に起こった悲劇をまた再び繰り返すことになる。
疑い,批判すること。
これだけは,忘れたくないことだ。


それにしても,太田の思考の鋭さには,いつも感嘆させられる。
「冷戦時代は,イデオロギーの対立でどちらか一方を叩き潰すしか方法をしらなかったが,これからの世界は異なるイデオロギーを持っていてもそれを互いに押し付けず,共存を図る時代だと思う。しかし,アメリカは,自らのイデオロギーを武力で押し付けている。これは昔の帝国主義と同じだ。アメリカには自由と民主主義があるというが,人間を殺す自由などない。今,日本が正義としているものはアメリカの言う正義でしかないではないか。」「若い人間は,小泉さんがやっていることにそれは違うよと反発しなきゃだめだよ。若いんだから。」(かなり端よってしまったけど大要はこんな感じだったと思う・・・。)。
このような辛らつで,ストレート,しかし根源的な批判を公の場でできる人間が,今のこの日本でいったいどれだけいるだろうか?いろいろ問題発言もする彼だが,その姿勢は本当に尊敬できる。
太田の「正義が人を殺すということがある。それを否定する理屈が必要だ。」という根源的な問いは,戦争の本質を突くものとして,聴く者を惹きつける力があった。
あれだけの情熱で,あれだけラディカルな,ある意味危険性を伴う問題をぶつけることができる彼は,本当のジャーナリストかもしれない。