自身の可能性

オイラは,元々書くことが苦手だ。
頭ではいろいろ考えるのだが,それを表現しようとするとなんとも脈絡がなく,文章にならない。いや,ちょっと違うな。率直にいうなら,文の体裁を気にするあまり書くことを諦めてしまう。そんなことがよくある。自分でも,これは悪い癖だと思う。


だから,小説にしろ,音楽にしろ,絵画にしろ,自ら何かを創造している人を,その一点のみにおいて尊敬する。なぜなら,それは,自らの未熟さ,いたらなさ,あるいは,無知をさらけだし,それでも「どうだ」と人前に出すことだからだ。オイラは,それがなかなかできない。何でも,体裁を気にし,人からの評価に震える。このブログを書くことも,どんなに自分の日記だと意識しようとも,外からの目を意識せずにはおれない。


全然,話は違うのだが,この前,大阪府知事橋下弁護士が当選したとき,「ああ,大阪ぽいなー」などと小ばかにしていたものだが,しかし,この橋下弁護士にしろ,自らの無知や未熟さをさらけだし(たとえ本人がどこまで自覚しているかは別として),あまたの批判を受けることを覚悟した上で出馬しただろうことを想像すると,その一点だけを取っても,オイラとの違いを認めざるをえない。


どんなに自分を大きく見せようとしても,その大きさは自分自身が一番良く分かっているのだから,自分はごまかしようがない。
最近,簡単な哲学史を読みながら,つくづくそう思う。
と同時に,幾多の偉大な哲学者たちも,たぶん,多かれ少なかれ同じよう苦しみを感じていたんだろうななどと勝手に考え,自身を慰めるのでした。


自らの可能性を開いていく。
それをオイラは,「言葉」と「考える」ということに託したい。