喫茶店

どーも。
またもや半年以上も間を空けての更新となってしまいたした。
まあ,この間もいろいろあったので,しょうがないでしょう。
勉強もせねばなりませんので,あと半年くらいはこんな感じの更新になると思います。


今日は,久しぶりにカメラを持って(2ヶ月ほど前,一眼レフのカメラを買ってはまっております),巣鴨と表参道をぶらぶらしてきました。
巣鴨では,じいちゃん,ばあちゃんの波にもまれ,異次元空間を体験してきました。そこらの商店街ではおそらく見向きもされないようなお店にものすごい人が群がっている光景を見て,かなりとっぴだけど,日本経済の今後のあり方について考えさせられました。

その後,表参道へ移動して,あらかじめネットで調べていた喫茶店へ行きました。ネットで見て,雰囲気よさそうだなと思って行ってみたんだけど,想像どおり,とてもよい雰囲気のお店でした。お客もほとんどなく,静かで,ゆったりとした音楽が流れ,本を読むにはベストなところでした。

        
        
        
        
        


そこで,オイラは,久しぶりに野矢茂樹氏の「他者の声 実在の声」(産業図書)を読みました。この本は,オイラがウィトゲンシュタインと出会うきっかけを作ってくれた本で,「論理哲学論考」と併せ,オイラに「知的革命」(大げさでなく)をもたらしてくれた本です。オイラが独学で「論理哲学論考」を理解するのはおそらく無理だろうし,野矢氏との出会いがなければ,ここまで思考や論理について考えることもなかったろうと思う。そういう意味で,この本との出会いは,オイラの人生の中でも大きな意味を持ったものでした。なので,この本を何度も何度も,繰り返し読んでは,「うーん,うーん」と考えて,悩んでおりやす。


今日は,この本の中の(この本は,短い論考20本近くで構成されている。)「他者の声 実在の声」という本の題名ともなっている論考を読みました。
この論考の中の一節,とても印象に残った部分を引用します。


「私は,いま私が話しているこの日本語をなによりもまず周囲の大人たちから学んできた。それゆえ,私の言葉は私だけの言語ではありえず,周囲の大人たちと一致することをめざされた基本的に公共的な,いわば外に開かれた言語でなければならなかった。ところが,ある人の用いる言葉の意味というのは,その人がどういう経験をしてきたかということに影響されずにはおれないのだ。言葉を完全に共有したままで人生経験だけが個人ごとに多様化していくということはありえない。人生の分だけ言語がある。言語は公共的な生まれをもちつつ個人のもとに発散していくのである。たとえば分かりやすい例は『愛』という語の意味だろう。経験してきた愛の形が異なれば,それによってどのような愛の形が『愛』という概念の典型例になるのかという理解も異なる。そうして『愛』という言葉の意味も異なってくる。…ここに,意識の他者とは違う,『意味の他者性』が現れる。他者は,意識における他我ではなく,意味の他者として私を取り巻く。」


オイラもいつか,意味の他者を理解できる日がくるのだろうか。
そんな淡い期待を,しかし,今のオイラは持つことができない。