1年を振り返って

何ともはや,またもや前回ブログを書いてから1年が過ぎてしまいました。
自分の不精さと,余裕のなさに,ちょっと凹みます(^−^;
まぁだけど,思い立ったら吉日,今日からまたボチボチと再開しようと思います。


今日はまず,この1年,つまり昨年の9月あたりから今日までを振り返ってみたいと思います。
しかし,年齢が30を超えたせいなのか,1年や2年前のことなんてホントに昨日のことのようで,なんか全然実感がないんだよね。だけど一方で,矛盾,遠い過去のような気もして,人間の記憶ってホント不思議です。


それでは,まずは前半の半年。

この半年間は,はっきり言って,それまでの人生の中でもかなりしんどい半年間だったと思います。
その年の4月から新しい仕事を任されるようになったんだけど,仕事の内容もさることながら,対人間とやり合うことが多い仕事で,小心者のオイラとしては,かなりしんどい仕事でした。正直,うつになるんじゃないかと心配になったほど。特にしんどい症状としてはストレスがお腹にくることね。下痢や便秘を繰り返して,そういった症状のせいでなかなか仕事にも集中できずに,まさに悪循環。いや〜,マジでしんどかった。
だけど,最近,同じような症状で苦しんでいる人って多いらしいね。
過敏性腸症候群」って言うらしい。
最近,テレビでも取り上げられるようになってきたし,お医者さんも「最近,そういった患者さん多いんですよ」って言ってたもんね。まさにストレス社会,大丈夫かね日本は,などと自分のことは棚に上げて人ごとのように思ったりしたものでした(そういった点では変な楽天主義みたいなところがあるだよね。自分でも不思議だけど。)。


それから,この半年間で大きな出来事といえば,パートナーと正式に別れたことですな。
それまで,悩んだり,言い争ったりしたことも多かったからひとつの節目をつけられたことで気分的にはかなりすっきりはしたけど,未だに考えることは多い。
本当にその選択が正しかったのか,自分の,彼女の今後の人生はどうなっていくのか。
ふとした瞬間に,言い知れない不安感に襲われることともままある。
心の整理がつくまでには,もうしばらく時間が必要だろうけど,おそらくは時間が解決してくれるだろうという,ここでも根拠のない楽観主義が顔をのぞかせるのでした。
人生の大きな挫折。だけど,人間は挫折から多くのことを学ぶとすれば,このことを今後の人生に活かしていかなければいけないなと思う今日この頃です。


さて,前半の半年はこんな感じでした。
前半のこの半年は,ホントに時間が経つのが長く感じた半年だったなぁ・・・。
ホントしんどかったんだなぁって思います。

それでは,後半の半年について。
後半の半年は,前半と打って変わって,というかそれまでの仕事生活から離れて学生生活に戻ることになり,本当に時間の流れが早く感じた半年間でした。
大学院というものがどういうところなのか,ほとんど知識もないままに行ったので,こんなにも課されることが多いのかと,かなり面喰いました(専門職大学院ということも関係してたかもしれませんが・・・)。
なおかつ,授業の内容が,自分が本来やらなければならない学問分野とは違うものばかりなので,前期の授業中はほぼやりたいことができず(まぁ,半分言訳ですが・・・)。
なんか,気ばかり急いてた半年間だったなぁって思います。
いやー,こんなんじゃあかんね。
今書いてて,ホントそう思う。
自分を見失ってるわ。
ちゃんと腰を据えて,自分の問題意識を見定めて地道にやっていかなければと思いました。


まぁ,そんな半年間ではありましたが,それでもやはり得るところは少なからずありました。

まずは,さすが日本でも屈指の最高学府とだけ言われるだけはあるなというところを実感できたところです。
まぁ,頭脳明晰,優秀な人が多く,政治や社会に対しても自分の考えを持っている人が多いですね。
もちろん,学部生上がりが多いから観念的な面があることは否定できないけど,政治や社会についての話を真剣にできるというのは,僕としてはとても好い環境だなと思いますね。
ただ,ちょっと残念なのは,就職や成績の勉強についてはホントにすごいものがあるんだけど,本来,政治や公共政策を考える際のバックボーンとしてその基盤を与える哲学的思考があまり感じられないところかな。現に,おそらく,就職や進学に不必要な哲学的・思想的著作を読んでいる形跡はあまり見られない。また,話していても深い洞察や,内省の形跡も感じられないのです。人に完璧を求めるのはせんないことだし,自分だって,というか自分こそ不完全極まりないから人のことはとても言えないけれども,今後日本を背負っていくような優秀な人たちだけに,惜しむらくは,その辺にも関心を向けてほしいと切に思うのでした。


それともう一点,前期の授業で大きな収穫であったのが,経済思想史の勉強ができたことでした。
アダム・スミスから始まって,ウェーバーケインズ,オルド自由主義ハイエクフリードマンと,まあ,主要どころを網羅しただけですが,それでも,それぞれの主要な原著に触れる機会ができたことは得るところ大でありました。
そしてこうも思ったんだ。
すべての社会科学に言えることだとは思うんだけど,やっぱり学校で習うような教科書的な理解はほとんど役に立たない。いやむしろ,それぞれの思想家の言わんとしているところを大きく歪曲してしまうことが多いのだと。
今まで,曲がりなりにも多くの批判や論争を潜り抜けてきた理論というものは,やはりそれだけの価値があるものです。単純に,これは「○○主義だからね」などと言える人は,おそらくその著作から何も学んでいない人なのでしょう。人が真剣に考え,深い苦悩の末に精緻に積み上げた論理を前にしては(そして,先に挙げたような人たちはまさにその第一級の思想家だ),そうやすやすと何々主義などとは言えないはずなのだ。

オイラが,これら思想家から学んだ最大のことは,それぞれの思想家は必ず自らが良しとする社会像(具体的なものであれ,抽象的なものであれ)を持ち,明確な価値基準を持っているということ,そして,その価値基準を背景として自らの思想を人々に理解してもらうためには,膨大な努力を傾けて緻密な論理を作り上げる必要があるということである。
とてもとても,オイラにそのような芸当ができるはずもないが,これら思想家のそういった姿勢に触れらることだけでも,つまらない人生を少しだけ豊かにすることができる。


先日,NHKで「希望」についての特集がやっていた。
現代の日本社会(日本だけではないと思うが)の多くの人は希望が持てず苦しんでいるらしい(ご多分にもれずかくいうオイラもその一員かもしれませんが・・・)。
ただ,少し思うんだよね。
本来,生きるということに意味などあるはずがない。
この世界に生まれ落ちてしまったがゆえに生きるしかないんだ。
そこに何事か意味を付けなければ気が済まない人間といういう生き物は,その故に思い悩むというなんとも厄介な生き物なのです。
だったら,そのことを逆手にとって,何でもいいから自分で勝手に意味をつけてしまえばいいんじゃないかなぁと思う。


どんな学問にしろ,小説にしろ,芸術にしろ,そのヒントは無数に転がっている。
なにせ,それこそが生物としての生き物から,ものを考える人間が生み出してきたものだからだ。
人生に意味などない。でもだからこそ,勝手にいろいろ意味付けできるのだ。
もっと自由に,もっと楽に。

あぁ,オイラも書いてて少し楽になってきた。
あまりにも長くなってしまったので,今日はこの辺で。

あぁ,よく書い(^−^;