歴史の個別性

人間誰しも自分が生きているこの時代が特別であり,歴史の転換点にいると思いたいものだ。
自分は特別な存在であり,その自分が生きているこの時代は歴史上でも大きな位置を占めているはずだ,と。


昨今の国内外の経済状況,政治状況等を見るにつけ,そういう思いを抱いている人は多いだろう。
かくいうオイラもそうだ。
例えば,オイラが小学校を卒業した1989年にはベルリンの壁が崩壊し冷戦が終結,国内においてはバブル崩壊が始まろうとしていた。
また,オイラが高校を卒業した1995年には,阪神大震災が起き,オウムによる一連の事件により社会は大きく動揺した。
さらに,オイラが就職した2001年には小泉政権が誕生し,今の政治的混乱の端緒を開いたし,9月11日にはアメリカで同時多発テロが起き,その後の世界のあり方や覇権国アメリカの国のあり方を大きくかえる変えることとなった。
このように見ると,自分の生きてきた時代というのは,その節目節目において大きな歴史的出来事の連続だったように感じる。


しかし,やはりこれはオイラの視点から見たひとつのストーリーに過ぎない。
オイラが小学校を卒業した1989年から数えても約20年間。
その間には,この世界に生きる一人ひとりの人間にはそれぞれなりの出来事があったはずで,それぞれなりのストーリーがあったはずだ。


確かに,オイラが先に挙げた出来事はそれぞれがとても大きな出来事で,ある意味,歴史的事件であることに異論はないと思う。
しかしそれと,オイラの人生の節目が重なっていることはあくまでも偶然であり,そこに何らかの関連性があろうはずもない。
だけど,自分の人生の節目とそのような歴史的出来事が重なっていると,やっぱりどこがでその歴史的出来事も自分とつながっているのではないかと思いたくなってしまうのだ。


この社会の歴史というのは各個人とは切り離されて,それ独自で脈々と紡がれていくものだ。
しかし,個人をとってみれば,やはりその個人としての歴史はひとつでしかあり得ないのではないかと思う。


刻々と過ぎゆく時間を見ながら,ふとそんなことを思った今日この頃でした。


しかし雨が多いよホント。
だから,ちょっと鬱々とした気分になるんだな(^ー^;
明日からは晴れるらしい。
両親とばあちゃんが桜見物に来るので,晴天を期待します。