そのとおり。

はい,今日はブログ生活3日目。
今日は,書きたいことがいろいろありますが,一番印象に残ったことをかくことにします。


オイラは,今,「分断される経済―バブルと不況が共存する時代」(松原隆一郎著/日本放送出版協会)という本を読んでいる。今日,この本を昼休みに読んでいて,思わず「そのとおり。」と声が出そうになるのを必死にこらえた。これはもう,ブログに書かずにはいられません。

この本は,松原隆一郎という東大の教授が書いているが,全面的な小泉「構造改革」批判を展開している。この本の面白いところは,松原教授の専攻が社会経済学ということだからだろうか,経営学的視点や社会学的視点が織り交ぜられていて,読んでいて全然飽きない。まだ読んでいる途中なのだが,「そのとおり」「なるほど,そうか」と思わされることが本当に多い。トヨタの経営手法を持ち上げてたりしているところは,若干どうかな?と思うが,だからといってこの本の評価は変わらない。以下,若干,長くなるが,今日読んでいて,小泉「構造改革」の本質をよくついている文章を紹介したいと思いやす。


「都市再生」の議論がいかにも異様なのは,建築基準法都市計画法,地方交付金制度などをすべからく都市での人口の混雑緩和政策ととらえる点である。そして容積率規制や,そのもととなる都市計画法および建築基準法が,「都市再生」政策によって大手ディベロッパーの言うなりに撤廃された。それらは混雑緩和政策の面を持っていたとしても,本来は良好な都市生活を実現するための社会的規制である。そうした規制を廃止することで容積率を拡大し,そこで生み出された空間を,所有者が個人として楽しんだりビジネスから利益を得たりするために販売しようというのである。
                 (中略)
たとえば東京都の国立市では,住民が長年自己規制した結果築き上げた良好な街並みに,高さと巨大さの点で景観を明らかに損なうようなマンションが建てられ,2000年に住民から建設中止の訴訟が起こされた。建築じたいは合法であるために建築中止は困難であるらしく,地裁では高層切除命令が出たものの,高裁では逆転してマンション業者に有利な判決が出た。とはいえ,建築業者もまた,国立市の「大学通り」の景観が美しいことを広告に謳っている。つまり高層階からその美しい景観を眺望する権利を商売にしたのである。
                 (中略)
このマンション建設は,街並みの美しいことを知っておきながら,それを流入してきた一部住民に私物として販売し,街並みは破壊するという行為である。市民の共有の財産であった街並みが,一部の企業が利益を上げ小数住民が眺望を得るために,侵されたのである。
                 (中略)
土地の所有からは,所有者が個人として楽しんだりビジネスから利益を得ることができる。都心の高層マンションの住民は,通勤に便利なだけではなく夜景を楽しみ,ステータスを感じたりする。それだけに注目すれば,法規制は混雑緩和かビジネスチャンスか,といった単純な二分法から撤廃すべきものと見えてしまう。だがそう見えるのは,経済学が単純な所有論しか持たないからである。都市には「暮らしやすさ」や「美しさ」という要素もあり,それは個々人がばらばらでは作り上げることはできない。個人の楽しみや短期的なビジネスを自己規制することで,社会として築き高めるような別次元の価値である。
                 (中略)
結局のところ,「廃墟」を高収益の用途に転用するという構造改革は,現実には容積率を上げて高層ビルを建て,一部業者と高層階住民だけを満足させる策となっている。それと引き換えに,賑わいある界隈や維持されてきた景観が破壊されている。謳い文句の容積率を上げれば人が集まるという発想は,あれほど批判された箱物行政と同じ論理でしかない。箱物は,中身なしには人を魅了することはできないのだ。そしてその中身とは,下北沢のように人々が努力し編み上げてきた小さな愛すべき空間や,国立のように人々が自己規制の結果として作り上げた街並みなのである。


小泉政権が推進する「構造改革」は,ここに書いてあるとおり,多くの国民にとっては決して幸せを約束しない。今,国会では社会的格差の問題がクローズアップされおり,公明党冬柴幹事長などは高齢者が増えているから社会的格差が拡がっているようにみえるだけだ,などと理由にもならない理由を挙げていたが,ここにも書かれているとおり,元々,小泉「構造改革」は一部の人間や企業のために大多数の人間を犠牲にする以外成り立ち得ないものなのだ。壊れかけてはいたけれど,それでも少しずつ築きつつあった人間的な繋がりや,人間としての尊厳ある生き方,美しい風景や豊かな食文化などをことごとく破壊し,汐留に林立する巨大なビル群に象徴されるような荒廃とした風景をその上に築いていく。彼らはいったい何を目指しているのか。どのような日本の未来像を思い描いているのか。彼らの暴走は,しかし,絶対に長続きしない。なぜならそれは,日本の社会とは絶対に両立しえないものだからだ。その端緒は,今,少しずつ現れてきているのではないだろうか。