大きな政府,小さな政府を巡る議論

大きな政府,小さな政府というとき,それは誰にとっての,どのような意味でのことなのか,それが抜けている。多くの国民,障害者,老人,母子家庭,子供,やむを得ず貧しい境遇に置かれている人々に対して,人間としての尊厳を持って生きていけるような様々な施策を講じるという意味においての「大きな政府」ということを否定する人々はいったいどれほどいるのか。


そもそも,大きい,小さいを論じるとき,何を基準に論じているのだろうか。国内総生産か,先に挙げた社会的必要に応じてか。社会的必要に応じてということならば,どのようにその費用を徴収し,使用するかが問題になるはずだ。適正で公正,かつ,多くの国民の納得を得る徴収の仕方とは一体何か。不要不急の支出とはいったい何か。


 その日,その日の食費にも困っている人々から,富者と同じような方法により徴収することが社会的に適正,公正といえるのか。自ら危機を煽りたて,無辜の市民を殺傷する軍隊と共に行動するために軍事力を増強するという道が本当に必要な支出なのだろうか。

 
 我々は,「大きな政府」,「小さな政府」という無意味な言葉にいつまで振り回されるのだろうか。


 今,「小さくして,効率・簡素な政府を目指す」と声高に叫んでいる為政者達は,自らの利益と保身を最大の動機とし,他者への想像力を欠いた者たちでしかない。彼らの人間性はどこへいってしまったのか。それとも,資本の人格化とはかくも醜きものなのか。

 人間の知識・認識はこの数世紀で飛躍的に高まったというけれど,いやいやどうして,道はまだ半ばといったところか。


 ゴールデン・ウィークの暇な午後にふと思い立ったことでした。