大きな分岐点を迎えて

最近,テレビを見ることが極端に減った今日この頃だが,そんな中でも,「おっ!」と思う番組,特集が目に付く。


先日,NHKで放送のあったワーキングプアを扱った番組もそのひとつだ。
ワーキングプア,つまり働く貧困層が今,日本で急増しているという。
都市でその日の食費(2〜300円)を稼ぐために週刊誌を拾い集める30代の男性,認知症の妻を抱え,みずからもその日の生活を極限まで切り詰め生活する地方の老人,農業収入が激減して生活への不安を抱える10人家族,3つもアルバイトをかけもちし男手ひとつで二人の子どもを育てるもまったく生活に余裕のもてない中年男性等,そこに映し出された映像を見ていて,強い衝撃と恐怖を覚えた。


小泉構造改革が目指すもの。それは既に完成の域に達しているのではないか。
資本主義を原始的資本主義にまで鈍化させ,一部の人間あるいは企業の飽くなき利潤追求を,大多数の人間の犠牲の上に成り立たせる,そういう社会を小泉は目指していたはずだ。
お見事!だから,小泉は開き直る。「格差社会で何が悪い。自分はそういう社会を目指してきたのだ。」。


それでも,いや,だからこそ,弁証の論理が少しずつ,芽を出してきたのではないか。
最近,そう感じることがある。最近,このような番組が少しずつ出てきていることも,そのひとつだ。
ことはそう単純でないことは百も承知しているが,それでも,そう信じるに足りるだけの社会状況を小泉は作り出してきたのだ。


同番組で経済評論家の内橋克人氏は「(現在のこのような状況は,)日本社会にとって最も深刻な構造問題を引き起こしている。それは,労働力の再生産を不可能にしている。」と述べていた。


倫理的な問題とともに,純粋に経済学的な,あるいは,理論的なレベルにおいても,日本社会の現状は,その存続を問われる,正に歴史の分岐点に立たされているといえるのではないか。