言語と思考

「人間は,言葉をとおして世界を見ている」(レオ・ヴァイスゲルバー)
「言葉があって初めて概念が生まれる」(フェルディナン・ド・ソシュール

昨日,テレビで言語学についての特集がやっており,上の言葉が紹介されていた。この言葉を見て,先日,何かの本で読んだ,「人間は,言葉を獲得して初めて,思考できるようになった」という言葉を思い出した。


人間を人間たらしめていること。
それをオイラは,思考すること,あるいは,できることと同義だと考えている。
そして,その思考は,言葉・言語から始まっているということなのだ。


最近,オイラが常々考えていることは,思考するとはどういうことか,また,自ら考えたことをどのように表現すればよりよく伝わるかということだ。
言葉というのは,多くの場合,多義的であり,議論するときなどは,よほど用語について吟味し,注意しないと,議論の土台が据わらず,かみ合わないまま,大きなすれ違いを起こして終わる。


オイラの近しい人たちの中には,自らがはまり込んでいる言説体系を意識・自覚せず,他者の発した言葉を無意識のうちに自己がカテゴライズした言葉に置き換えてしまう人がいる。人は誰しも,ある言説体系にはまり込んでいるし,大きく言えば,母語(日本でいったら日本語)という言説体系からは逃れられない運命にある。だから,それを否定することはできないし,そこから完全に自由になることなど出来ないが,しかし,だからといって,それを自覚せずにいたら,他者の言う言葉をことごとく自らの言葉に置き換え,あるいは,自らの思考枠組みに当てはめて,結局のところ,意志の疎通に齟齬をきたしてしまうことにもなりかねない。もっと言えば,自ら置かれている位置を疑いもせずに,思考停止に陥っていることさえままあるように思うのだ。


ジャーゴン」という言葉があるが,これは,ある組織やグループの中でだけ通用する専門用語を表わす言葉だ。
このジャーゴンが蔓延し,それに疑問を呈する人間がいなくなった組織は,硬直化し,衰退の途を辿ることになるだろう。
それを避けるためには,たえず,外部との応答を通じ,自らと価値観が違う者達を自らのこととして理解するように努めることが必要なのだ。


イードの言葉を借りれば,「亡命者にして周辺的存在であり,アマチュアであり,さらには権力に対して真実を語ろうとする」そういった「言葉の使い手」(サイードはこれを知識人と定義している。)に対して,どれだけ耳を傾けられるか。
本当に未来を見据える組織なら,決して避けては通れない途だろうと思う。