思考の被拘束性

何かの本で、「ある思想なり、理論なりを理解するためには、どんなに優れた解説書を読むより、1冊の優れた批判書を読む方がその助けになる」というようなことが書かれていた。


その思想なり、理論なりにおいて当然の前提とされているものは何なのか。その前提を疑ってみる。そうすると、逆説的だが、その思想・理論が何を問題とし、何と格闘しようとしたのかが見えてくることがある。


ひとつの思想・理論が強力であり、論理的であればあるほど、それとの距離をとることなしに、その本来の意義・精神をつかむことは難しいのではないかと思う。
なぜなら、その拘束性が強力だからであり、それに接した後には、どんなに意識していようとも大きくその論理構造に規定されてしまうからである。


すぐれた思想・理論(こう書くとかなり危険な誤解を招いてしまうが)であればあるほど、その教えるところは、それらを「知識」として「覚える」ことではなく、自らが直面する問題に対する対し方であり、思考するというその精神であるはずだ。


すべてを疑う。
疑うことによって、その対象となっている思想・理論を再構築していくのだ。
そうすることによってしか、本来の思考というものは獲得できないのではないかと思う。