第三者の目

この前本屋で立ち読みした「現代思想」(2007年11月臨時増刊号)でマックス・ウェーバーが特集されており,その中で姜尚中さんが「ウェーバーの可能性」という表題で文章を書いていた。
今,日本では,格差と貧困問題を背景としてマルクスの理論が見直されているが,マルクスと並ぶ社会科学界の雄マックス・ウェーバーの理論もまた復権しつつあるようだ。


ウェーバーといえば,周知のとおり,その主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において,宗教(キリスト教プロテスタントのカルヴィニズム)がもたらした人間の精神構造の変革(世俗内禁欲のエートスと合理主義〔これらを総称してウェーバーは「資本主義の精神」と呼んでいる。違うかな?〕)が資本主義の生成・発展に大きな役割を演じたということを論じ,人間世界において宗教が果たした役割に光を当てた人物である(ウェーバーから学んだことについてはまた後日書くことになると思うが,その最大のものをひとつ挙げるとすると,それは,矛盾の中の真理というか,時代の逆説性ということだろうか。つまり,世俗内禁欲という,いわば金儲けをすることなかれというカルヴィニズムの教義に敬虔であった人たちの行動によって,結果として資本主義の生成に大きな役割を演じたという逆説。こういう逆説性を日本の政治家や経営者たちも学んでほしいと切に思いやす。)。


オイラもここ1,2年は人間の精神構造への関心の高まりから,宗教のことをしばしば考えるようになった。
そもそも,なんでオイラが人間の精神構造に関心を持ったかというと,常々,なんで日本人(オイラが「日本人」という時その典型を自らに置いている)は,こうも物事を単純化し,熟慮に欠けるのだろうか。なぜこんなにも外部的要因に左右され(小泉元首相が郵政選挙で勝利した辺りがこの疑問の頂点だった。),疑問というものを持たずに生きられるのかということがずっと頭にあったからである。
また,この疑問に輪をかける形となったのが丸山眞男との出会いであったろう。
丸山は一貫して日本の,日本人の精神構造に焦点を当て,なぜこうもころころと考えが変わり,その実何も変わっていないのかということを問いかけていたように思う。そして,丸山が出したひとつの結論が「まさに変化するその変化の仕方というか,変化のパターン自身に何度も繰り返される音型がある,…ある種の思考・発想のパターンがあるゆえにめまぐるしく変る,…よその世界の変化に対応する変り身の早さ自体が『伝統』化している」というものだった。
まあ,要するに,日本人に核となる精神なりというものはなくて,その変化のパターンである「型」があるに過ぎないということかな?
この丸山の理論にも影響を受けながら,そういう精神構造を形作るものとして宗教への関心が強まったのでした。


そして,オイラなりに宗教が人間の精神構造に与える影響というものを考えたんだけど,それは,自己の精神の中に「第三者の目」を持つということではないかと思ったのだ。


宗教を持つ人間は,神(仏でもいいけど)と対峙することを通して自らに問いかけ,内省することによって,自らの中に他者の目を宿し,自らがどのように生きるべきか,その価値基準を確立していく。
その価値基準は,自らへの戒めを常に伴っているものであるから他者への寛容の精神を裏に持ち,また,一旦立ち止まり思考するという経験を経ることによって,複合的な視点を醸成させることになる。
何世紀もの歴史に耐えてきた普遍的宗教は,自ずとそのような精神構造へと導く途を持っているのではないだろうか。


オイラは宗教というものを何ももっておらず,また持つつもりもないが,宗教的な経験を通じての精神的鍛錬は,人間精神を形成する上で,その価値を過小評価できないと思うのだ。
もちろん,以上のような解釈は,オイラの勝手な解釈であり,オイラがなんらか特定の宗教の教義を熟知しているわけでもなく,その歴史への理解も浅薄きわまりない。
ただ,オイラが日本人に欠けていると考えるもの,それが,上のような過程を経て得られる「第三者の目」ということなのだ。
もちろん,日本人もそれぞれ価値基準というものは持ってはいる。生きている以上,現実生活の中で常に何らかの選択をせねばならない場面は無数にあり,したがって,自ずと選択の基準というものがなくては生きていけない。しかし,日本人が持っている基準というものは,自らの中で熟成させ,鈍化させたものだとはどうも思えない。
一方ではマスコミ等を通じて得られた情報をそのまま自分の基準としてしまう人がおり,他方では狭いサークル内での理屈に拘泥している人がいる(自分自身に照らしてみても。)。
そこには何か,自らの内で思想なり,意見なりを熟慮した形跡が感じられないのだ。



日本の民主主義を真にそのもの足らしめるには,自己との対話を深めた後に得られる「第三者の目」というものは,非常に重要な要素であるように思う。


社会主義について永久革命を語ることは意味をなさない。永久革命はただ民主主義についてのみ語りうる。なぜなら民主主義とは人民の支配―多数者の支配という永遠の逆説を内にふくんだ概念だからだ。多数が支配し少数が支配されるのは不自然である(ルソー)からこそ,まさに民主主義は制度としてではなく,プロセスとして永遠の運動としてのみ現実的である。『人民の支配』という観念の逆説性が忘れられたとき,『人民』はたちまち,『党』『国家』『指導者』『天皇』等々と同一化され,デモクラシーは空語と化する。」(「自己内対話」56頁)

あり?最後は丸山眞男で終わってしまった。まあいいか(^0^;