自己という他者

今日,以前提出した哲学のレポートについて,模範例として受講生に配布したい旨の申し出を受けた。
その哲学の先生は,哲学の世界では高名な先生なので,そういう先生に評価してもらったのは率直にうれしい(ちょっとした自慢にもなる)。


それで,提出した文章をもう一度読みなおしてみた。
正直,そんなに大した内容ではないし,書き方も荒いけど,自分の書いたものを読み直してみると,いつも不思議な感覚になる。
上手い下手はともかく,なんだか自分が書いたものとは思えない感覚。
書いている時も時々味わうものだが,どこからかもうひとりの自分が出てきて,書いているようなそんな感覚である。


オイラは,どちらかというと,というか絶対的に,書いて表現する方が自分の気持や考えを上手く表現することができると思っている。
自分のことを卑下しようが,脚色しようが,書くときには逡巡が交じる。
話しているときは,そうはいかない。
衝動的に,あるいは,突発的に思ってもいないことを口にしてしまうこともある(それが話すことの大事な部分なのかもしれないが)。


今,ツイッターが大流行だが,オイラはどうも苦手だ。
そこには,書き言葉としてのためらいや迷いが見られないからだ。


書くという作業を通して,自分の中の他者と会話する,あるいは,他者を確認する。
だから,この作業はとてもしんどいけれども,やはり生き,考えていくためには必要なことなのだろうと思う。