友人

昨日は,大学院の友人と3人で飲みに行ったのですが,久しぶりに朝まで飲んでしまいました。


1人は,この前もブルグに書いた院でも一番仲の良い人で,もう一人は,今年入学した社会人の人なのですが,前期に急速に仲の良くなった人です。


おそらく,この2人とは,院を卒業した後も付き合っていくことになるだろうなと思えるような2人で,2人とも,それぞれこれまで歩んできた道のりが平坦ではなく,紆余曲折を経て今日に至っている人たちなのですね。
そういう人と話をすることは,実感に裏付けられた説得力があるというか,どこかで芯が感じられるというか,とにかく面白いですね。


昨日は,3人だけということもあって,ホントに色々なことを話しました。


一番仲の良いという人は女性で,既に結婚もしていて一児の母なのですが,あることで悩んでいて,昨日はそのことを話しているうちに,泣き出してしまいました。
彼女の悩みは,なかなか解決の難しい悩みで,正直何と言ってあげればいいのか困ってしまったけど,普段はすごく明るくて,場を盛り上げるような人なので,そういう人が泣いている姿というのは,格別に胸を打つものがありますね。
今後とも,できる限り力になってあげたいと改めて思いました。


もう一人の,今年になって仲良くなった人は,結婚を約束した女性がいるのですが,ちょっとした家庭の問題で,こちらも悩んでいました。
まぁ正直,こちらの悩みは,どちらかというと彼の頑固さに起因しているところが大だとは思うのですが,彼のそういう頑固さというのが,なんかすごくいいんですよね。
なんというだろう,基本的にすごく真面目なんですね。
オイラなんかだと,別にそんなことどうだっていいじゃんと思うことなんだけど,彼の中では,彼なりのポリシーがあってそれは絶対に譲れないものなんだそうだ。
だから,それが達成されるまで結婚はしないんだと言っておりました。
面白いね,人にはそれぞれ色んな考え方があるもんです。


しかし,今日一人でボーっと考えてたんだけど,オイラ,自分では友達ってそう多くないなぁと思ってたんだよね。
だけど,こちらに来てから知り合った人や,東京や大阪,北海道,そして海外にいる友人等,考えてみたら,心を許せる友人が結構いることに自分でも驚きました。


そういう友人たちとは,そう頻繁に会える人ばかりではないけれど,オイラにとって,本当に大切な存在だなとつくづく思いました。
そういう人たちとの触れ合いが,どれだけオイラを癒してくれたことか。


オイラは,基本的に自分勝手な人間で,かつ,あまり周りの人は気づいてないかもしれないけど,かなり好き嫌いが激しい。
そんなオイラだけど,自分が好きになった人に対しては,どんなことでもしてあげたくなってしまう。


そういう友人たちに対して,感謝の気持ちを忘れてはいけないなと思う,今日この頃でした。

脳を開く

今日,学校であった友人(といっても彼は学部から上がってきてるので10歳くらい歳が離れてますが)から,実はこの数カ月間うつ状態だったんですよ,と打ち明けられた。
彼の性格は,日頃から物静かで,活発に行動する方ではない。
別にめちゃくちゃ内気という訳でもないけど,基本的には内向的な性格だ(だからというと語弊があるが,オイラ同様哲学が好きである。)。


だから,ちゃんと話をせずに,廊下ですれ違ったときに挨拶をするくらいでは,彼がそういう状態になっていたとは露と思わなかった。
最近は,薬を飲んでかなり回復したそうで,「最近は生きているだけでも幸せなんだって思えるようになりました」と言っているのを聞いて,そんな風に思えれば大丈夫だなと思ったりした。


しかし,彼と話していても思ったことだけど,話すって本当に大事だなと思いやした。
話すということは,相手が必要なことであり,相手の話す内容,反応等を斟酌して,応答する作業ですね。
これが,社会的動物たる人間の脳に与える影響は計り知れません。


実は,オイラも,今日その彼と話すまで,丸一日ほぼだれとも話さなかったら,それだけども,なんかボーとしちゃうというか,脳の停滞を感じたりします(気のせいかもしれないけど)。
しかし,彼と話していていて,時には笑ったりもすると,なんと脳がすっきりすることか。


人間の精神はやはり外的な条件に規定されており(今さら取り立てて言うことでもありませんが),その影響を受けた精神がまた現実に作用する。
この作業がどこかで遮断されてしまったときに,少なからずその人の身体・精神状態に支障をきたすことになるのでしょうね。


そして,書くことは話すこととイコールではないけれど,脳にとっては話すことと同程度の良い作用を及ぼすはずだという勝手な思い込みで,ちょっとサボり気味だったブルグを書いてみました。


終り。

今日の夜は飲み会だ!!

平等院鳳凰堂

昨日,宇治の平等院鳳凰堂に行ってきました。


極楽浄土の宮殿をモデルにしたという鳳凰堂は,確かに何とも幻影的な趣がありました。
昨日は,あいにくの雨でしたが,それがまた,その幻影的な雰囲気を演出して,想像の世界に浸ることができました。


鳳凰堂が建立されたのは1053年ということですから,かれこれ1千年が経つのでありますが,現代の世は,当時の世界とは比べようもない科学技術の発展や,社会技術の発展が見られ,非常に高度な社会になったような気がします。


しかし,そのような世界にあっても,やはり人間が求めるものは,究極において,ほとんど変わりないのだろうななどと,雲中供養菩薩像などを見ながら,またまた具にも付かないようなことを思っていました。


当時の世界も,今の世界も,人間がこの社会を生きていくのはとても大変なことです。
そこには,喜びや感動ももちろん多いですが,苦しみや悲しみも,それに劣らず多いものです。
人間の,幸せに,平安に生きたいという願望は,苦しさ,不安が増す社会だからこそ,大きなものになるのですね。


この世に望むと望まざるとに関わらず産み落とされた人間は,それを自ら慰めるように色々と考えます。
外から見ると,何ともかわいそうというか,健気な存在だと見えることでしょうね。


まぁ,何はともあれ,行ってみてよかったです。

言ってはいけない言葉

今日,家に不在で受け取れなかった郵便物を取りに近所の郵便局に行った時のこと。
おそらく70ないしは80歳くらいの男性が,窓口の女性の人に何やら怒ってました。
滑舌が悪いせいか,男性の言っていることを聞き取るのが難しかったけど,どうも,家族の郵便物をその男性が取りにきたらしいのだけど,その手続でもめているみたいだった。


窓口とか飲食店なんかでたまに見るけど,不合理なことや理不尽なことを言って店員さんとかに文句を言っている人いますよね。
もちろん,店員や窓口の人の対応がひどかったり,機械的な対応に終始してたりして,怒りたくなる時もあるでしょう。
その気持はわかるし,オイラだってそういう経験は多いです。
だけど,怒るにしても,そこでもやはり言っていいことと悪いことってあると思うんですよね。


オイラが今日,そこで聞いた言葉は,心が痛くなる,とても許されない言葉のように思いました。
窓口の人が,その男性に丁寧に説明していたときのこと(本当に冷静かつ親切に対応しているように見えました),その男性がその女性に「そんなことは分ってるってさっきから言っとるやろが。ホンマ自分,どん(純)やな(おそらく関西弁で鈍いという意味だと思う)」と言ったのです。
文字にしてしまうと,その時の雰囲気があまり伝わらないかもしれないけど,この言葉は,傍らで聞いているオイラにさえ,胸に突き刺さるものがありました。


もしかしたら,窓口の人はそういうことは言われ慣れているのかもしれないし,その男性だって相当頭にきていたのでしょう(それから,その男性は家で介護をしているらしく相当疲れてもいるようだった。)。


しかし,そういう色々の背景事情を加味しても,やはり人間として言っていいことと悪いことはあると思います。
人の尊厳と人格を否定するような言葉は,どんな状況,背景事情があったとしても,やはり言ってはいけないのではないでしょうか。
なぜなら,それは人の存在意義を否定するような響きを持つからです。


言葉は,人間が手に入れた,おそらくは最高の手段であり,能力だと思います。
それは,人間を幸せにし,文化・社会を豊かなものにします。
しかし,使い方を間違えば,それは,どんな凶器よりも危険なものになるのです。
言葉のそういう性格を,やはり意識しておかないといけないと思います。

ちょい久しぶりの更新になりました。


というのも,16日〜20日まで北海道に旅行に行っていたのです。
院の友人に誘われて,札幌,小樽,旭川等に行ってきました。


今回の旅行は,行くかどうかかなり迷ったけど,結果として行って大正解でした。
鬱々と大学で勉強をしていたら,なんだか精神的にちょっとヤバい感じになってきてたんですが,そこに友人からの誘い。
先日も書いたけど,その時に村上春樹の『海辺のカフカ』を読んでいたのも大きいかもしれません。
小さいことをうじうじ悩んでいるよりも,気分転換をして,ガッと集中してやることも必要だ,と考えられるようになりました。


さて,北海道旅行ですが,今回行って非常に良かったのは,以前から行きたいと思っていた小林多喜二の故郷・小樽に行けたこと,また,旭川三浦綾子記念館に行けたこと,それから,院で一番仲の良い友人の家族や周囲の人たちと交流できたことや札幌にいる大学時代の友人家族に会えたこと,そして,何よりでかい北海道を体感できたことでした。


1日目は,出発が遅く,夜の7時くらいに札幌に着いたので,とりあえず札幌の歓楽街すすきのを見て,大通公園のテレビ等を写真に撮って,そして,コーンバターらーめんを食べました。
時間のない初日としては,まずまずの滑り出しでした。


2日目は,小樽に行きました。
小樽は,小林多喜二の作品や三浦綾子の『母』を読んで以来,一度は行ってみたいところだったので,とても良かったです。
小樽は,札幌から特急で30ほどと,割と近いんですね。
小樽に近づいていく途中で,電車が海岸線を走るのですね(ホントに海の近く。日本海の荒々しい海が間近に見えました。)。
そして,線路が海の方に斜めになっているところがあって,電車の中から見ていると地面が見えなくなって,ちょっと海の中を走っているような感覚になったりして,不思議というか幻想的というか何とも言えない感覚を味わいました。
そして,電車から見える海を見ていてちょっと想像しました。
小林多喜二が生きていた頃の時代を。
もちろん,建物も綺麗になっているし,電車だって綺麗だし,その頃とはまったく違う風景なんだろうけど,だけど,時折ちょろちょろとその当時を思わせるようなおんぼろのほったて小屋みたいなのがあるのです。
それを見て,想像するのです。
人間は自分が見たものを土台としてしか想像できない生き物ですから,やはり現場に行ってみることは非常に大事だなと思いました。
小樽に着いてもそれは同じ。
街はすごく綺麗になっているし,観光地化されているけど,そこここに想像の土台となる建造物や街並みがあります。
色々な土地に行くことによって,いかにその土地やそこに生きた人々の歴史に思いを馳せることができるか。
それが大事なんだろうと思います。


小樽では,定番の小樽運河を見て,昔「北のウォール街」と言われた旧金融街の歴史的建造物を見て,そして小林多喜二の展示などがある,小樽市立文学館を見に行きました。
小樽市内は結構観光客がいたのに,文学館にはほとんど人がいませんでした。
ゆっくり見れたからそれはそれでいいのですが,なんだかねー,観光客の人たちは何を見に来ているのでしょうか。
まぁ,人が観光に求めるものはそれぞれであっていいとは思いますが,綺麗なものや有名なもの,立派なものを見るだけが観光じゃないと思うのですがね…。
それは,京都に住んでみてもつくづく思うことです。
桜や紅葉の季節にとても混むけど,正直,そういう綺麗な京都はオイラにしてみたらどこか嘘っぽい。
京都の歴史や文化を感じようと思ったら,むしろそれとは真逆な冬とかに来たほうがよっぽど想像力を掻き立てられると思うのですがね。
こういうことを人に話しても,あまり共感されませんが(^ー^;
まぁいいや,ということで小樽はそんな感じでした。
あぁそうそう,お昼に入ったお寿司屋さん(小樽はお寿司が有名らしくて,お寿司屋さんの通りがありました。そのうちの一軒に入って三色丼(うに,いくら,甘エビ)を食べました)の大将(ここの大将が良い人で,おごりで注文以外に色々握ってくれました。)が言っていたんだけど,旭山動物園ができてから小樽の観光客がかなり減ったらしいです。ちょっと切ない気分になりました。。。



3日目は,旭川の友人の実家にいきました。
その友人とは院で一番仲の良い友人なのですが,その家族と友人の恩師などとジンギスカンをご馳走になりました。
その友人は紆余曲折を経て大学に進学したのですが,その変遷が聞けてとても面白かったです。
また,お父さんが旭川大自然も見せてくれて,北海道の大きさを実感しました。
それと,旭川でとてもよかったのが,三浦綾子記念館に行けたことです。
三浦綾子の率直で真摯な言葉の数々を読んでいたら,「赦し」の意味が少しだけわかったような気がしました。
純粋にそして正直に自らの生を生き,そして人間とこの人間社会を愛した三浦綾子の生涯に触れられたことは,本当に大きな経験でした。
もちろん,三浦綾子の真似をする必要もないし,そんなのできっこないけど,そういう偉大な人を目標に置くというか,少なくとも頭に留めておくだけでも,自らへの戒めになるのだと思います。それはある種の宗教的心情を自分の中に形成することだと思うけど,そういう心的状態は悪くない,というか必要だなと思います。


4日目は,大学時代からの親友が札幌に転勤で住んでいるので,彼の自宅にお邪魔しました。
彼は結婚していて(旭川の友人も結婚して子供もいますが),オイラと同じ歳なのに子供がなんと3人(4歳,2歳,7か月),しかもみんな女の子!すごいね,ホント。
子供たちがオイラの来るのを楽しみにしていてくれたらしく(この前行ったときは,上の子がまだ2歳だったからそんなに覚えているはずもないんだけど,友達がオイラのことをかなり話していたみたい),着くなり「遊ぼ,遊ぼ」ってせがまれました。
友人は大学時代,いつもオイラのことを「ナベ」と呼んでいたので,子供たちもオイラに「ナベしゃん,ナベしゃん,遊ぼ,遊ぼ」と言って,キャーキャー騒いでました。
もうホントにかわいくて,これでもかってくらい一緒に遊びました。
家の中で追っかけっこしたり,肩車したり,公園でワイワイ遊んだり。
子供は,こっちが愛情を注げば注いだだけ素直に表情に出してくれる。
それが本当に嬉しくて,癒された。
別れ際,「やだー,やだー」って言って大泣きして,思わずもらい泣きしそうなくらいでした。
人の子にしてこうなのだから,自分の子供なんかができたら,相当ヤバいでしょうね。
まぁ,そういう日がきたらの話ですが(^ー^;


そして,最後に今回の旅行をとても充実したものにしたものについても言及しない訳にはいきません。
それは,北海道とは直接関係がないのだけれど,村上春樹の『海辺のカフカ』を読みながらの旅だったということです。
電車の中,飛行機の中,待ち時間,小樽でふらっと入った喫茶店の中,そして,寝る前のひととき,合間合間を見て少しずつ,しかし,着実にこの至極の小説を読んでいきました。それは,オイラに思索する素地を与えてくれ,そういう精神状態で色々なものを観ることができました。
今までにもそういう経験があったのかもしれないけど,今回ほど,文学と旅というのがリンクした時はなかったように思います。
海辺のカフカ』は,小説の分野においては,三島由紀夫を読んだとき以来の知的興奮を覚える作品でした。
それは,先日も書いたと思いますが,物語の本質の押し出し方,細部へのこだわりが如実に見えるその文体,言葉というものの本質を理解している人間でなければ表現しえないような表現の仕方,そのどれを取っても,村上春樹の実力をこれでもかというくらい味わうことができました。
友達から『1Q84』も勧められているので,是非,今後読んでみたいと思います。


いずれにしても,今回の北海道旅行は本当に充実した旅でした。
忘れえぬ思い出となるでしょう。

小説はいいもんだ…

今日は,ホントに久しぶりにリラックスした時間が過ごせた。
というのも,先週から村上春樹の『海辺のカフカ』を読んでいるのだが(今さらの感はありますが…),それがあまりにも面白くて,それまで鬱々と考えていたことどもが,なんかどうでもよくなって,リラックスした気分で読むことができたからだ。


今日も学校に来て勉強をしていたのだが,お昼を食べて,食後に学校の中庭みたいなところでカフカを読んでいたら,まぁ面白く,リラックスできること。
どんどん読んでしまい,気が付いたら2時間近くが経過していた。
空はけっこう雲があって,少しどんよりした天気だったけど,時折雲の合間から青い空が見えたりして,「なんだこの幸福感は!」と思ったくらい。


久しぶりに小説を読んで,改めて,人間にとってフィクションの世界って大事だなと思った。
現実世界にどっぷりと浸かっていると,目の前の膨大な現実を目の前にして,なんだかにっちもさっちもいかないような感じに勝手に自分を追い込んでしまうことがある。


だけど,小説を読んで,異次元の世界に自分を持っていくと,世界はもっと広いんだぞ,そんな小さいこと気にすんなって言われているような気がして,「まぁ,なんとかなるか」という気分にさせてくれる。


それにしても,村上春樹のすごさには感服しました。
これまで,『アフターダーク』しか読んだことがなかったので,その面白さを理解できなかったけど,その細部にまでのこだわりが感じられる文体,ストーリーの運び方は,惚れ惚れとしてしまいます。


あっという間にカフカを読んでしまいそうなので,これから時間の許す限り読んでみたいなと思います。

帰省

この前の金曜日から実家に帰省してました。


1日目は,実家に帰る前に生まれて初めて江の島に行きました。
あんなに近くに住んでながら初めて行くって…。
江の島自体は,まぁ,1回行けばいいかなって感じですが,久しぶりに乗る江ノ電は最高でした。
平日だったので乗客も少なく,快適かつナイスロケーション!


2日目は,昼間は両親とともに鎌倉に行きました。
ただ,出るのが少し遅れたせいで,結局,鶴岡八幡宮しか行けなかった。
その夜は,久しぶりの友達と飲みました。
当初,渋谷の友達が知っていたお店に行こうとしたら結婚式の2次会で貸切,やむを得ずほかのところを探したら,怪我の功名,雰囲気の良いお店に入ることができ,色々と話しました。
お互い共通点もあり,だけど,興味・関心が違うところも当然あり,それがうまくかみ合っている感じがして,話しててとても楽しかったです。
やっぱり話すって大事ですな。


そして今日は,実家から車で30分ほど走ったところにあるダム湖に行き,一人暮らしの我が家に帰宅しました。


それにしても,最近実家に帰るたびに思うのは,両親がどんどん老けていくなぁということ。
とくにおふくろの方は,仕事をやめてから生きる張りを少し失っているようで,ボーっとしていることが多くなった。
そういう姿を見ていると,悲しいというか,切ないというか,どこか子供を見るようで,とても複雑な気持ちになります。


毎日,往復4時間の通勤をし,ハードな仕事をし,子どもを3人も育て上げた代償として,燃え尽きてしまったのかな…。


今回,実家に帰って一番思ったのは,おふくろの喜ぶようなことをしてあげたいなということ。
別に親のために結婚とか子供を作る訳じゃないけど,ちょっと真剣に考えようかなと思いました。


まぁ,どうなるかわからんけどね。
なんかすごくそう思った。